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国家とは(レポート)

まず配布プリントの「人が歴史から学ぶ最大の教訓は、人は決して歴史から学ばないということだ」この言葉に非常に感銘を受けた。確かに人は過去の戦争や民族紛争などといった戦いについて歴史から学んでいない。歴史をそれほど重要視していないのであろうか。疑問に思うところである。

さて、国家とは何を基準に国家というのかと問われても非常に難しいものである。国家という言葉で思い浮かぶのは国家権力という言葉である。例えば何か犯罪を犯し警察に捕まりそれ相当の罰を受けることを国家権力の世話になると言ったりする。これからも分かるように国家は権力を持ちそれを行使できるという存在であるということがいえる。私達が普段の生活をおくれるのも大きく言ってしまえば国家のおかげである。しかし毎日の中で国家というものを意識するということはまずないであろう。日本人はそれほどまでに国家に依存しておらず頼りきってもいないのだ。日本がひとつにまとまるということの例としてスポーツが挙げられる。「日本代表」という肩書きを背負った精鋭達が海外の国々と対戦する時、または中田やイチロー・新庄のように個人単位での海外で活躍している選手達を応援する時などである。しかしこれらは彼らがあくまで「日本人」という肩書きを背負っていているからこそするのである。スポーツの世界以外に日本中が一丸となって熱くなるといった場が果たして現代に起こるだろうか。僕は皆無に等しいであろうと思われる。なぜこのようになってしまったのだろうか。それには原因もあるだろう。僕が思うに昔の人というのは少なくとも国家に頼っていた部分があると思われる。敗戦後の日本において生活というものは裕福とはほど遠いものであり、衣・食・住全てにおいて生活レベルは満足していたとはいえない。そのような生活において唯一の救いであったのが配給制度である。1週間に2〜3回食事が無償で配られこれにより人々は生活の補助を得ていた。この制度の背景には国家が挙げれるため、この時代の人々にとっては国家さまざまであっただろう。しかし現代日本においてはグローバル化、ボーダレス化、多角化などが起き、もはや事業を起こすにしても新製品を売り出すにしても視野は日本だけでなく世界にむけられている。そのため日本国家への帰属意識というものも徐々に薄れ、国家のあるべき意義というものも空洞化したものになってしまっていった。

また、国家への不信もとりだたされている。それは警察の不祥事である。ピークとなった2、3年前よりはややニュースにあがる回数などは減ったもの完全になくなったわけではない。事件のもみ消しやコカインなど麻薬の横流しなど私達が聞いて驚かなくなってしまっているほど日常化されてしまっている。本来国民の生活を守るべきところである警察の不祥事がこうも続いてしまっては信じろというほうが無理な話である。

国家が存在しうる限り国家の役割というものを果たす義務があるだろう。それは国民が貧富の差なく豊かな生活をおくれるというものを保証するということなどが挙げられる。それには国民の不信感を拭い去ることも重要であるが国家を運営してくべき人間の意識改革も必要であろう。国家を動かす人間が変わらないのではきっと国家も変わらないであろうと思う。

英語の「school」という語が、ギリシア語で「暇」を意味することや、日本語の「教育」に相当する英語の「education」の本来の意味は「引き出す」である。

では昔のギリシア人は「暇な」学校で何をしていたのかと言うと、なにより哲学が重視された。哲学は英語のphiosophyであるが、元のギリシア語ピロソピアーは「知恵を愛する」という意味である。知恵(ソピアー)とは、暗記しうる知識とは異なり、人間が幸福に生きるための正しい判断力を意味した。

一方、立派な精神にふさわしい立派な肉体を鍛えるための体育も重視された。体育館は英語でgymnasium。日本語では略してジムという。これはラテン語のつづりをそのまま残しているが、元は「裸で鍛える」という意味のギリシア語gymnazein「ギュムナゼイン」という動詞に由来する。今でいうボディビルのようなトレーニングをしていたようだ。

さて、古代ギリシアの学校としては、プラトンのつくったアカデミーが有名である。プラトンは、師ソクラテスの教えを三六の対話篇に記し後世に伝えるとともに、現実社会を変革する人材育成の場としてアカデミーを設立した。

例えば『国家』(ポリーテイアー)という作品では、哲学を修めた国の統治者がどのようにして理想国家を運営するのかといった問題を追及している。このように、天下国家のありかたを真正面から取り上げて論ずる態度は、日本人にとっては堅苦しいこと、縁遠いことのように思われるかもしれない。しかし、ギリシア語の原題「ポリーテイアー」(politeia)は、古代ギリシアにおいてはごく平凡な日常語で、「ポリス(都市国家)のあり方」といった響きをもつ。

ところで、今紹介したポリーテイアー、ポリテス、ポリスといった語は、互いに密接に関連しながら「政治」を意味する英語politicsの語源になっている。また、国家を表すポリスとは、「警察」を表す英単語policeの語源でもある。国家の治安をつかさどることと関連していることにちなむ。

一方、プラトンの『国家』を模倣したローマの文人にキケローがいる。『国家について』と訳される作品を残しているが、原題はラテン語でDe Re Publicaという。Deは英語のabout、Reはthing、Publicaはpublicに相当するので、タイトルを直訳すれば「公の物について」という意味になる。つまり、キケローは、「国家」とは、特定の個人の所有物でなく、「公の物」、「みんなのもの」であるべきことを主張した。今もrepublic(共和国)という英語の単語に、このラテン語のつづりが残されている。ついでながら、「出版する」を意味する英語publishも、今ふれたpublicと関連している。書いたものを「公にする」というニュアンスが込められている。

さて、政治の話が出たついでに、「社会」を意味するsocietyという英語の語源を考えてみると、これは、ラテン語で「親交、友愛、絆」を意味するsocietas(ソキエタース)からできた言葉で、さらに遡れば「仲間」、「友」を表すsocius(ソキウス)という語に由来する。また、このsociusという言葉自体「分かち合っている、結びつけられた」という意味をもつ形容詞でもある。ラテン語のsociusを語源とする英単語としては、他にassociation(協会)がある 。意外なところではsoccer(サッカー)もsociusと関連している。元はassociation footballと呼んでいたのを、短縮してsoccerと称するようになった、というのがその種明かしであるそうです。

ソクラテスは、「無知の知」という言葉で有名であるが、これはどういう意味だろうか。デルポイの神託で「ソクラテスより知恵のある人間はいない」というお告げを聞いた彼は、この神託の真実性を疑った。そこで自分よりも知恵を多くもっていそうな人物に、人生の意味や美の問題、究極の真理に関する疑問をぶつけた。その結果わかったことは、これらの人物は単に知ったかぶりをしているだけで、自分の無知にぜんぜん気づいていないということであった。つまり、無知を自覚した自分とそうでない連中の間には、じつに大きな違いがあることに気づいたのである。すなわち、「無知の知」は「無知の無知」にまさるという点で、ソクラテスは神託が正しかったことを確認した。

さて、この「無知の知」との関連で、話は私たちの生きる現代---21世紀のネットワーク社会---まで一気に飛ぶ。ネットワークをめぐる昨今の議論においては、個々の情報を正しく判断する能力が重要であるという意見をしばしば耳にする。この能力を英語ではwisdomとよび、ギリシア語ではソピアー(知恵)とよぶのである。インターネットの普及は、このようなソピアー重視の方向に拍車をかけ、本来の意味で哲学を指向するように時代の流れを形成していくと期待される。

ところが、今までの社会では、短い時間で多くの知識を手に入れる方法論が重視されてきた。知識を暗記することが出世に役立つ近道であると信じられてきた。事実、従来の学校のテストは、その能力の有無を調べる構造になっている。知識が大切なことは言うまでもないが、本来と異なる意味で「知識は力である」(Knowledge is power.)という思想が蔓延しているとすれば、それは問題であると思う。

他方、どれだけ多くの知識をもつことが許されたとしても、人間は、森羅万象の事象について、無知同然で死んでいく。人生は短く、知るべき事象は計り知れないほど多く存在する。では、人間が本当に知らなければならないことは何なのか?こう考えるとき、ソクラテスの「無知の知」という考え方、また、彼が命をかけて問い続けた問題――「人として善く生きること」――が何であったかを考えることは、これからのネットワーク社会との関わりの中で、案外重要な意義をもつのではないかと思われる。

 

 

 

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