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クルド人問題とは(レポート)

 
クルド人は、中東のトルコ、イラン、イラクにまたがる一体の地域(「クルディスタン」:クルド人の土地)に居住するインド・ヨーロッパ系の民族である。人口は推定2000万〜3000万人で、アラブ、ペルシャ、トルコに次ぐ中東で4番目に多い人口を持つ大規模な民族である。しかし、現在の世界地図上に「クルド」もしくは「クルディスタン」という名の国は存在しない。クルディスタンは現在、トルコ、イラン、イラク、シリア等の国家に分断されている。数千万の人口規模があり、一定の領域に居住しながら、独自の国家を持たない民族は他に存在しない。

 古来より、アナトリア東部からメソポタミア平原北部、サグロス山脈北西部一帯に居住するクルド人は、その地理的事情から、常に周辺諸国の争いの渦中で生きることを余儀なくされてきた。そしてクルディスタンは、その大部分がオスマン帝国に、残りがペルシャなどに取り込まれた状態で20世紀を迎えることとなる。

 第一次世界大戦後に、クルディスタンは複数の国民国家へ編入されることが確定し、その分断は決定的なものとなる。1920年に結ばれたセーブル条約で一度はクルド人国家の樹立が決定されたものの、1924年のローザンヌ条約でその決定は反故にされ、クルド人国家の樹立は幻と化してしまう。

 結果として、かつてオスマン帝国領だった地域は、北クルディスタンがトルコに、南クルディスタンがイラクにそれぞれ取り込まれていく。以後クルド人は、編入された各国政府に対して、独立・自治を求めて戦うことになる。

 しかし、国内にクルド人を抱える各国は、自国の安定のため、相互にクルド人の自決権を認めないことで利害を一致させている。その一方で、国外のクルド人勢力を利用して、自国に有利な情勢を作り出そうとする各国の思惑の中で、クルド人は常に将棋の駒として利用される存在となっている。

 【トルコ】

 トルコ国内には、推定約1500万人のクルド人が居住しており、これはトルコ人口の約25%に相当する。しかし、トルコ政府は、共和国建国以降「クルド人」という民族は存在しないとする政策を貫いている。トルコ政府は、彼らを「山岳トルコ人」という名称で位置付けている。クルド人は政府の同化政策の下で、クルド人としてのアイデンティティを否定され、今日に至るまで厳しい現実の下にさらされている。

 1984年にアブデュラー・オジャラン率いる「クルディスタン労働者党(PKK)」が、トルコ政府に対して武装闘争を開始する。以後約15年に渡って、PKKとトルコ軍との間で武力衝突が繰り返されていく。その過程で、トルコ軍による村落破壊等により、多くのクルド人が移住を余儀なくされる事態も起きている。しかし、1999年2月のオジャラン議長逮捕に伴い、両者の武力衝突は、ひとまず収束を迎えるに至っている。

 また、EUへの加盟をめざすトルコは、EUや人権団体からの圧力を受ける中で、民主化へ向けた法整備を進めている。しかし、実際上クルド人の権利拡大には未だに至っていないのが現状である。

【イラク】

 1921年にイラクが建国されて以降、南クルディスタンのクルド人勢力とイラク政府のせめぎ合いは今日まで続いている。1930年代から、ムスタファ・バルザーニを中心としたクルド人勢力の抵抗運動が活発化し、その過程で「イラク・クルディスタン民主党(KDP)」が1946年に結成される。1976年には、KDPを離脱したジャラール・タラバーニによって「クルディスタン愛国同盟(PUK)」が設立され、以後この2大勢力を中心にクルド人の抵抗運動が展開されていく。
 イラン・イラク戦争の際、KDPとPUKはイラン政府から支援を受けてイラク政府に対抗するが、イラク軍は彼らに化学兵器を使った攻撃を行う。中でも、1988年3月にハラブジャという町に対して行われた化学兵器攻撃では、約5000人の死者を出すという悲劇を生んでいる(ハラブジャ事件)。それ以後も、イラク軍による攻撃や、クルド人の強制移住は繰り返し行われていく。
 1991年の湾岸戦争の際に蜂起したクルド人に対するイラク軍の攻勢により、大量の難民が発生するという事態も起きた。以後、多国籍軍のイラクに対する飛行禁止区域の設置により、北イラクに事実上のクルド人自治区が生まれた。その後はKDPとPUKの間の抗争が一時激化するが、現在は一応の安定を保っている。

 また、2003年3月に始まったイラク戦争終結が終結し、イラクがどういった国家に生まれ変わるのか、そしてクルド人の自治がどうなるのかという点が現在注目されている。

【イラン】 クルディスタンの大部分は、オスマン帝国の領域内に取り込まれた状態で20世紀を迎えたが、現在のイラン国内のクルディスタン(東クルディスタン)は、1639年にオスマン帝国とペルシャとの間で結ばれた協定により、事実上他の地域とは分断された状態にあった。
 1942年、クルド人の政治結社「クルディスタン復興委員会(コマラ)」が結成され、これが1945年に「イラン・クルディスタン民主党(KDPI)」として再結成される。そして1945年には、マハバドを中心とする地域に、初のクルド人国家「マハバド共和国」が生まれた。しかし、ソ連軍の北イランからの撤退と同時にイラン政府軍が侵攻し、クルド人国家はわずか1年で崩壊してしまう。
 その後、1978年のイラン・イスラム革命の際に、KDPIは革命政権に対して自治要求を行うが不調に終わり、以後KDPIとイラン政府との間で戦闘が繰り返される。

 近年に至っては大きな衝突もなく、表面上は平穏な状態を保っている。

 


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